入定塚
麻生区五力田と稲城市平尾の境目に佇む入定塚
 
小田急多摩線・五月台駅北口から北西に坂を上ること10分あまり。麻生区五力田と稲城市平尾との境目の丘陵の上に「入定塚(にゅうじょうづか)」と呼ばれる塚がある。入定とは聖者が死去することや禅定に入ることを言い、真言宗の開祖・空海は禅定に入ることによって弥勒菩薩が現れるまで待つことを説いたが、これを信奉した真言密教の一派が中世以降、各地で入定した。彼らは自分の意志で生きながら経文を唱えて埋められたが、もちろんこれを死亡とは考えず、弥勒菩薩の来迎を待ちながら地中に入ったのであった。
 
この塚は江戸時代前期の貞享3(1686)年の古文書に入定塚として記録されていることから、この地域では古くから知られていたが、その実態は明らかにされていなかった。それが昭和34(1959)年に東京都教育委員会による多摩丘陵文化財総合調査で発掘調査が行われたことにより、以下のような塚の内容が明らかになったのである。
直系20mほどの円墳のような塚は、やや崩れているが、一辺が約10.8mの方形をしており、その上部に約5.4m四方の平坦な部分が残っていた。約1.8mの高さに積土された塚の頂部を掘り下げると中央部付近にローム層を整地して作られた約2m四方の主体部施設が発見された。その表面には直系3~5cmの川原石が一面に敷き詰められ、四隅には礎石と思われる25cmほどの扁平な川原石が置かれていた。おそらく四隅に柱を立て、高さ1mほどの板囲いの部屋を作り、その上に土を盛って塚にしたと考えられている。そして塚からは板碑9基、開元通宝などの明銭45枚、鉄釘7本が出土した。板碑の年号は応安8(1375)年から天文5(1536)年にわたっており、中でも高さが80cmと最も大きい天文5年の板碑(上部が欠けていた)には、「大日報身真言」の種子の下に「天文五年丙甲八月十五日 長信法印入定上人」という銘文が刻まれていた。これにより室町時代末の1536年に長信という僧侶が鎌倉からこの地にやってきて、経文を唱えながら入定したことが分かったのである。
 
低い雲がたれこめた12月の初め、身を切るような冷たい空気の中を入定塚を探して歩くと、金網で囲われた公園のような一角に大きな土饅頭が横たわっているのを見つけた。板碑が発掘された時、銘文の文字にはまだ金泥が残っていたと言う。
「入定の 長信坊が 塚残し」(案内板「稲城かるた」より)
 
 
地図
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所在地:稲城市平尾2-84
参考文献:『稲城市史上巻』(東京都稲城市)、『多摩丘陵文化財総合調査報告書』(東京都教育委員会)、現地案内版