藤代峠
園内で最も高い藤代峠からの眺め
 
六義園は五代将軍・徳川綱吉から厚い信任を受けて幕政を主導した柳澤吉保が、1695(元禄8)年に拝領した駒込の下屋敷に作られた「回遊式築山泉水庭園」である。
 
柳沢吉保は1658(万治元)年、上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として江戸市ヶ谷に生まれた。1675(延宝3)年に父、安忠の隠居に際して家督を相続し、1680(延宝8)年、館林藩主の徳川綱吉が、4代将軍家綱の将軍後継として江戸城に入ると、家臣である吉保も幕臣となった。1688(元禄元)年、将軍綱吉の親政のために新設された側用人に就任すると、禄高1万2000石の大名に昇った。1691(元禄4)年には常盤橋内に屋敷を拝領し、以来、綱吉の柳澤邸への御成は58回に及んだという。
 
吉保は、1694(元禄7)年1月に7万2000石とされて武蔵国川越藩主となり、同年12月には老中格と侍従を兼帯。翌1695(元禄8)年4月21日に駒込染井村の前田綱紀旧邸を拝領して、後にこれが六義園となった。その3年後には左近衛権少将に転任し大老格となっている。
 
1709(宝永6)年に綱吉が薨去すると、同年6月に吉保は家督を譲って隠居し保山と号した。その後は本駒込で過ごし、綱吉が度々訪れた六義園の造営などを行ったという。
 
六義園の名称は、「詩の六義」という中国の詩の分類法に倣った古今集の序にある和歌の分類の六体(そえ歌、かぞえ歌、なぞらえ歌、たとえ歌、ただごと歌、いわい歌)に由来しているという。吉保の撰した「六義園記」では日本風に「むくさのその」と呼んでいたが、現在では漢音読みで「六義」を「りくぎ」と読む習わしから「りくぎえん」と呼んでいる。
 
吉保が自ら設計・指揮し、7年の歳月をかけて作られた庭園は、中の島を有する大泉水を樹林が取り囲み、紀州和歌の浦の景勝や和歌に詠まれた名勝の景観が八十八境として映し出されている。吉保の文学的造詣の深さを反映したこの日本庭園は、造園当時から小石川後楽園とともに、江戸の二大庭園に数えられていたという。六義園は明治時代に入り、三菱の創業者である岩崎弥太郎氏の別邸となった。1938(昭和13)年に東京市に寄付されて一般公開されることになり、1953(昭和28)年3月には国の特別名勝に指定された。
 
六義園を訪れた5月初旬、園内で最も高い築山「藤代峠」の斜面は色とりどりのツツジで覆い尽くされ、圧巻の眺めであった。
 
 
[INFORMATION]
六義園
東京都文京区本駒込6-16-3(JR山手線・東京メトロ南北線「駒込」駅より徒歩7分)
TEL:03-3941-2222(六義園サービスセンター)
URL:https://www.tokyo-park.or.jp/teien/
 
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