小田急線・狛江駅からバスで10分ほどの「水神前」バス停から、向かいの万葉通りに入って少し行くと木々に囲まれた小さな公園がある。その奥の石段に、7世紀後半から8世紀後半に編纂された日本最古の歌集『万葉集』巻14の東歌の一首「多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだ愛しき」が刻まれた歌碑が立てられている。
この時代、日本では律令制が敷かれ、古くから麻や絹の生産が盛んであった多摩川流域では、調(絹や布、染料や紙など地域の特産品を直接、宮都に納付することが義務付けられた物納税)として布が作られるようになっていた。歌碑の万葉歌は、まさにこの「調(みつぎ)」の布を多摩川の清流に晒している様子を詠んだもので「多摩川にさらさらと晒す手作りのように、どうしてこの娘たちはこんなに可愛いのだろう」という意味である。
当時の手織り布は糸が太くて硬かったため、多摩川で布を晒しながら砧(きぬた)という木槌で布を叩き、布を柔らかくして艶を出していた。記録によれば、この衣晒しと衣叩きは江戸時代中期まで行われており、当地周辺には今も調布はじめ布田(ふだ)や染地(そめち)、砧などの布と関わりの深い地名が残されているのである。
ところでこの歌碑を建立したのは、元土浦藩士で当時70余歳だった平井有三という人物(狛江の猪方村の名主、重八の家に身を寄せ寺子屋の師匠をしていたが、幕府の老中を務めた松平定信はじめ多くの文化人と交流を持った)であった。平井は日本六玉川の一つ、武州玉川に名所がないのを残念に思い、万葉集に詠まれたこの句の碑を建立しようと思い立った。そして知人らに寄付を募り、1805(文化2)年、狛江の猪方村字半縄(現在の猪方4丁目辺り)の多摩川のほとりに、水神社と共に、松平定信の揮毫による歌碑を建立した。ところが建立から24年後、多摩川が大洪水に見舞われ、歌碑は行方不明となった。
時は流れて大正時代。松平定信を敬慕していた三重県の羽場順承は、旧桑名藩士より歌碑の拓本を手に入れた。羽場は当時、緒方村長をしていた石井扇吉や郷土史家の石井正義などの協力を仰ぎ、何度となく旧歌碑の発掘を行ったが発見できなかった。諦められない羽場は、同じく松平定信を敬慕する渋沢栄一を中心に、歌碑再建のための「玉川史蹟猶予会」を結成。2年後の1924(大正13)年4月、現在の場所に旧碑の拓本を模刻した新碑を建立するに至ったのである。万葉歌碑の傍らには、羽場が自作の和歌を刻んだ小さな石碑が、今もひっそりと佇んでいる。
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