調布市三鷹通りの佐須町交差点の東にある柏野小学校正門から祇園寺通りを南に歩くと、調布七福神の一つ、祇園寺がある。
虎狛山日光院祇園寺は、深大寺の満功上によって天平年間(729〜49)に開山されたと伝えられる天台宗の古刹だ。江戸時代に出版された「武蔵名勝図会」や「新篇武蔵風土記稿」「江戸名所図会」などにはしばしば紹介されているが、住職不在の時代が長かったため、寺に関する史料は散逸してしまったという。享保年間(1716〜36)の建築であった薬師堂(平成年間に改築)には行基作と伝わる薬師三尊が祀られており、桃山時代の遺構を残す閻魔堂(平成年間に改築)は中央に閻魔大王、両脇に十王が祀られている。
ところで当寺の境内には、明治時代の運動家、板垣退助が植えたと伝わる松がある。
明治維新がなされて近代国家の建設が進む中で、天皇は公議輿論に基づく政治の実現や立憲政体の採用を約束したものの、人々にはいっこうに政治参加の権利が認められなかった。その一方で、租税の負担や徴兵の義務は課せられ「報国」観念に基づいた愛国心を持つことが奨励された。このように権利の行使が制限され、義務だけが強制される現状に疑問を抱いた人々は、憲法をつくり国会を開いて国民の権利を保証し、国民としての能動性を引き出すことによって、後進国日本の危機を打開しようと、全国的な政治運動を展開した。これが「自由民権運動」と呼ばれるもので、1874(明治7)年、高知の板垣退助が民撰議院設立建白書を提出したことから始まったとされている。
1907(明治40)年、祇園寺の住職として、日本野鳥の会設立者である中西悟堂の養父・中西悟玄が入寺した。悟玄は、それ以前は政治家として各地を駆け巡り、当山住職になってからも、政治活動のかたわら「週間多摩新聞」の発刊や青年会の組織指導、三多摩地区農家への養豚の推奨など、地域のために幅広く活動を行っていたという。悟玄はまた、板垣退助率いる自由党の党員で、1908(明治41)年9月12日、秩父事件をはじめとする自由民権運動の犠牲者を弔う追悼集会を祇園寺で開催した。これに板垣退助はじめ自由党員千人余りが結集し、慰霊祭後に大演説会を行った。これを記念して板垣は、境内に2本の赤松の苗木を植えたという。「自由の松」と称されたこの松は「板垣死すとも自由は死せず」という言葉通り、今も境内の一角に、天高くそびえている。
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