駅の誘致に端を発したまちづくり
現在は UR賃貸住宅やマンション、戸建て住宅、スーパーや商店が建ち並ぶ「百合丘」。川崎市の統計情報によると、百合ヶ丘駅南側の百合丘1丁目から3丁目の人口は9,740人(2023年3月末現在)。この地域は昭和20年代には旧高石の字山後・富士塚・中半郡・半郡・二本松という地名で呼ばれており、起伏の激しい丘陵地帯で農家も数軒しかなかったといいます。当時、小田急線の西生田駅(現 ・ 読売ランド前駅)~柿生駅間には駅がなく、両駅の中間に駅を誘致しようという声が昭和26年ごろから高まりましたが、世帯数も人口も少ない当地域では思うように進展しなかったようです。
状況が一変したのは昭和30年代。日本住宅公団(UR都市機構の前身)が発足し、地主たちの働きかけにより、この地に団地が開発されることが決定しました。開発計画には、田畑を失っては生活ができないという理由から反対運動も起こりましたが、開発を推進する地元の委員会が説得し、昭和33(1958)年から開発工事が始まりました。そして昭和35(1960)年3月、同年8月の百合丘団地の入居開始に合わせて交通手段を整えるため、「百合ヶ丘駅」が開業。商店第1号の「ゆりが丘ストア」(8年後に「スーパーゆりストア」に改称)も同年8月にオープンしました。
昭和40年代に入ると、大手デベロッパーによる宅地開発も急ピッチで進み、人口はますます増加しました。昭和49(1974)年には隣に新百合ヶ丘駅ができ、多摩線も開通。50年代、新百合ヶ丘駅周辺の開発工事が進むにつれ、百合ヶ丘駅周辺での商業施設などの建設計画も活発になっていきました。
百人余りが力を合わせてできた「百合丘」
百合丘という町名は地元高石の人々により名付けられました。百合丘の誕生に協力した地主が128人、百人余りが力を合わせてできたので「百合う丘」、すなわち「百合丘」だということ、弘法松付近の山々に百合の花が咲き乱れていたこと、神奈川県の県花が山百合であることなどが考慮されたといいます。
散歩で訪れたい憩いの公園や歴史的スポット
百合丘には「王禅寺見晴らし公園」、「弘法松公園」、「百合丘第2公園」、「百合丘第3公園」「百合丘第4公園」など、大小さまざまな公園があり、地域の人々が憩いの場として利用しています。
また、百合ヶ丘駅北口より右前方に見える、樹木が生い茂った高台の頂上には「高石神社」が。江戸時代には「伊勢宮」と呼ばれ、その周辺も「お伊勢の森」と呼ばれていました。正月や毎年成人の日に行われる伝統行事「やぶさめ」の日などには多くの人が訪れますが、普段は静寂に包まれ、凛とした空気が漂っています。
二つの商店会と個性的な店の数々
現在、「百合丘駅前商店会」の加盟店34店舗と「百合丘中央商店会」加盟店24店舗、その他にも個性的な店・地元愛にあふれる店が百合丘には多数あり、こちらのページではそれらの店の一部を紹介しています。先に紹介した公園や歴史的スポットなどとあわせて、ゆっくり巡ってみてはいかがでしょうか。
参考:『マイタウンゆりがおか』(昭和55年8月1日発行号、昭和57年2月1日発行号)、『ゆりストアの歩み』(百合ヶ丘産業株式会社、平成元年5月発行)、『高石、百合丘の資料とアルバム』(高橋妙、平成9年6月発行)
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