松並木
旧東海道大磯宿付近に残る松並木
 
今月から何回かにわたり、神奈川県内の旧東海道のお話をしたい。麻生区を通る鎌倉古道や津久井道、近隣の中原街道や大山街道、甲州街道などについては何度か断片的に紹介してきたが、土地の歴史というのは周囲の道の発達とともに形成され変遷したものである。麻生区周辺の古い街道の歴史を紐解くことで、もう一度、麻生区の成り立ちについて考えてみたいと思ったのである。
 
律令時代「東海道」は道であると同時に、五畿七道という行政区画の一つでもあった。五畿とは大和・山城・摂津・河内・和泉の畿内五国。七道とは東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の7つの区画で、『延喜式』(10世紀初に編纂)によれば、東海道に含まれるのは伊賀・伊勢・志摩・尾張・参河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・上総・下総・安房・常陸の14か国であったという。中世になり鎌倉幕府が開かれると、東海道は新たな武家政権の中心地・鎌倉と京の都を結ぶ重要な幹線道路となった。
 
その約400年後、天下統一を果たした徳川家康が1601(慶長6)年に五街道の整備を行い、街道としての「東海道」が誕生した。日本橋を起点に京都の三条大橋まで53の宿場を持ち、神奈川県内には川崎宿・神奈川宿・保土ヶ谷宿・戸塚宿・藤沢宿・平塚宿・大磯宿・小田原宿・箱根宿の9つの宿場があった。その3年後、東海道をはじめとする諸国の街道の両側には、夏の暑さをしのいで風や雨雪から旅人を守り、積雪時には路標の役割をも果たす松や杉を植えることが命じられた。藤沢・茅ヶ崎・大磯・箱根などには今も立派な松並木が残り、往時の面影を伝えている。
 
JR大磯駅から国道1号線を東方向に10分ほど歩くと、三沢橋東側の信号に至る。この北側から旧東海道の松並木が東北方向に約1キロ続いている。松並木の間に建てられた「大磯宿江戸見附」の案内板には、「見附とは宿場の出入口に作られた簡易な建物で、宿場の京側にある上方見附に対して、江戸側にあるものをこう呼んだ」と書かれていた。 
 
東海道線の地下道をくぐり抜けさらに歩くと、「化粧坂一里塚跡」の案内板があった。一里塚とは、街道の一里(約4km)ごとに設けられた小休憩所のようなもので、この化粧坂では高さ3mほどの塚の山側にセンダンが、海側にエノキが植えられていたという。
 
立春を過ぎてもまだ寒々とした人通りの少ない松並木を歩いていると、ふと木々の間に400年前の旅人が通り過ぎて行くような錯覚を覚えるのだった。
 
 
地図
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