京王線・京王よみうりランド駅から「よみうりV通り」の坂を登り、ジャイアンツの室内練習場の手前の小道を入ると、鎌倉幕府の御家人・稲毛氏が築城した小沢城址や江戸時代の富士山信仰のシンボルである「富士塚」などが残る城山に至る。その山中に張り巡らされた遊歩道を歩いていくと、菅仙谷1丁目の登山口に降りる前の開けた場所に、板張りの見晴らし台のようなものが設置され「稲田(菅)探照灯基地跡」との案内板が立てられている。そこには「多摩区の丘陵地帯には太平洋戦争の末期まで、米軍の急襲に備え数か所の探照灯基地があった。この近くのくぼ地にも防空隊の探照基地があり、兵舎や電源車(発電機を搭載した車)とともに探照灯や調音機などが設置されていた」と解説されていた。
探照灯とはいわゆるサーチライトのことで、日本では陸軍が主に照空灯(照空燈)、陸軍船舶部隊および海軍が主に探照灯(照空燈)と呼んでいた。探照灯が軍事的に利用され始めたのは19世紀後半のことで、日露戦争の旅順港閉塞作戦ではロシア帝国軍が夜間戦闘に備えて多くの沿岸砲台にこれを設置し、日本海軍を効果的に撃退したという。 第二次世界大戦では、特にB29などの高空を飛ぶ爆撃機の夜間爆撃に対する防空手段として使われ、その一方で、戦闘機の操縦士や高射砲(地上から航空機を攻撃するために作られた火砲)の射手がターゲットにする爆撃機を照らすためにも用いられた。大型の爆撃機は機動性が悪く、爆撃コースに入ると投射された光から脱することが難しく、戦闘機や高射砲の格好の的となった。また強い光には爆撃機の乗員に対する心理的効果もあったという。
城山を歩き探照灯跡の見晴らし台までやって来ると、静まり返った空気の中に木々のさざめきや小鳥のさえずりが聞こえた。ほんの数十年前、ここに戦争基地があったなんてどうして信じられようか。この稲田探照基地では当時、電源車に使う燃料が不足したため、兵隊たちが付近の尾根に自生していたアカマツを伐採した。その根から松根油を採取して燃料としたため、いまでも城山にはアカマツがわずかしか残されていないという。
上を向くと木々の合間から清々しい新春の青空が見えた。これから何十年の時が流れようと、ここが二度とそんな恐ろしいことに使われませんようにと私は手を合わせた。
クリックで拡大