柿生駅北口から津久井道を北に10分ほど歩き、片平の信号を左折して7〜8分歩くと、坂の上に修廣寺(しゅこうじ)の山門が見えてくる。この寺は以前、梅の寺として紹介したが、今回は寺の仁王門の前に建つ「義僊祖関両師報恩碑」についてのお話である。
夏蒐山(なつかりさん)修廣寺は1400年代の初めに開創された曹洞宗の禅寺で、山号の夏蒐山はその昔、源頼朝がこの辺りで夏に巻狩(蒐)をしたことに由来するという。本尊は釈迦如来で、お前立として行基作と伝わる薬師如来が安置されており、寅年にのみ開帳されている。
前号の当コラムは、稲城市の「大丸尋常小学校跡碑」についてのお話だったが、ここ修廣寺にも明治5年に発布された学制により「片平学舎」が開かれた。片平学舎は明治8年に片平学校と改名し、明治10~30年頃にはさらなる高等教育を求める子女のために「夏蒐共同塾」が置かれ、地元のリーダーを輩出していったという。これらの教室に当てられたのが「開山堂兼衆寮」という建物で、9世・放牛大和尚の元禄12(1699)年に修行僧の道場として建立されたものであった。開山堂は位牌堂とも呼ばれ、平成22(2010)年に、元の紅梁(こうりょう)や框(かまち)などを生かし、現住職の節生和尚によって建替えられている。
片平学舎や片平学校、夏蒐共同塾で生徒を指導したのは、修廣寺22世の義僊大和尚と23世の祖関大和尚であった。現在、仁王門に向って左手に建つ「義僊祖関両師報恩碑」は両師の恩に報いて、明治35年に生徒らが建立したものなのである。碑文によれば、義僊は文政12(1829)年に京都に生まれ、俗姓は波部。15歳で出家し慶応2(1866)年に当山の住職を継ぎ、明治5(1872)年に片平学舎を開いた。義僊は仏教の専門的な知識にも一般教養にも優れ、英敏快活な性格で子どもから老人にまで慕われていたが、明治17年に56歳で没した。また祖関は天保6(1835)年、埼玉に生まれ、俗姓は宮寺。9歳で得度し、安政3(1856)年から埼玉県の妙圓寺の住職を30年務めた後に当山の住職となった。温和で慎ましく、人を受容れ百数十人の教え子がいたが、明治34年に67歳で没したという。
片平学舎・片平学校、夏蒐共同塾はその後、他の小学校と統合されながら尋常高等義胤小学校となり、昭和34年に川崎市立柿生小学校となって現住所へ移転したという。
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