鳥居
夏になると脇に大山灯篭が立つ二子神社鳥居
 
古来、雨乞い信仰の中心地として親しまれてきた伊勢原市の大山阿夫利神社。江戸時代、庶民はこぞって大山参りに出かけたが、その参詣道として使われたのが「大山道」(または大山街道)であった。関東各地から大山へ至るいくつかの経路のうち、江戸からの代表的な道は、江戸城の赤坂御門を起点に、青山、三軒茶屋、二子、溝の口、荏田、厚木、伊勢原を通り、箱根の北の矢倉沢関所から足柄峠を越えて御殿場、さらには沼津や甲府方面へ至ることから「矢倉沢往還」と呼ばれた。
 
この道はまた、東海道と甲州街道の間を江戸へ向かう脇道としても重宝され、江戸後期には、駿河のお茶や伊豆のシイタケ、秦野地方のタバコ、相模川のアユ、多摩丘陵のまきや木炭などの特産物を江戸に運ぶ輸送路としても使われたという。
 
溝口村や二子村がこの大山道の継立村(宿場よりは規模が小さく、旅人のために人足や馬を用意する)に指定されたのは1669(寛文9)年のこと。さまざまな物資や商人、旅人たちがこの村を行き来し、旅籠や商店が軒を並べ賑わったが、その足跡が、今もこの道筋に残り、往時の街道の空気を伝えている。
 
東急田園都市線の二子新地駅を降り、多摩川に架かる二子橋を背に大山道を溝の口に向かって歩き始める。ほどなく右手に二子神社の鳥居が現れ、その袂に「大山灯篭」のいわれが記されていた。江戸時代、大山信仰のために作られた「講」というグループでは、村の決まった場所に木の灯籠を立てて、毎年7月26日の山開きから8月17日の閉山まで、毎晩欠かさず火を灯したという。少し歩くと、戦国時代、落ちのびた武田の家臣が、浄土真宗の教如上人の弟子となり開山したといわれる光明寺だ。明治時代、二子村に初めて小学校が開校した時に、この本堂が使われ「二子学舎」と呼ばれたという。さらに歩みを進めると、2階が蔵造りになっている建物が目に留まる。店の前には大きな釜が置かれ、近づいてみると「この釜こそは大河ドラマ『黄金の日々』で石川五右衛門を釜茹でした代物」と説明書きがある。中に入りお店の方にお話を聞くことにした。
 
光明寺
寺の本堂が、二子村で初めての小学校の教室となった光明寺
 
飯島商店
店先に石川五右衛門の釜(ドラマで使用した)が置かれた飯島商店
 
次回(2)へ続く
 
参考:大山街道ふるさと館 発行資料
 
 
地図
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