窪全亮先生頌徳碑
自宅跡に建てられた、窪全亮先生頌徳碑
 
明治の世になると、中央政府は西欧に追いつけと教育制度の確立に着手し、1872(明治5)年には文部省から「学制」が公布された。これに先駆けて、各県では小中学校の前身である郷学が開校した。稲城でも1871(明治4)年の4月に常楽寺を教場として長沼郷学校が開校した。この教師を務めたのが長沼村(現在の長沼町)出身の窪全亮であった。
 
窪全亮は1847(弘化4)年8月に生まれ、江戸で漢詩人の大沼枕山に学び漢学者となった後、稲城に戻り、郷里の東長沼郷学校「博文学舎」の教師となった。そして翌年、新制度により設立された小学校の教師となり、1880(明治13)年、自宅に「奚疑塾」という私塾を開いた。奚疑塾では小学校卒業者を対象にして、習字・読物・作文・算術・英語などを教えたが、全亮は多摩地域の十代の子どもたちを寄宿させたり、貧しい家の子や女子を招いて法律なども教えたという。
稲城の名付け親でもある教育者、全亮の教育者としての評判は高く、教えを乞うために市域外からも生徒が集まってきたといわれている。
 
全亮はまた、稲城市の名付け親とも伝えられている。1845年に制作された『調布玉川惣画図』によれば、当時の稲城周辺は、大丸・長沼・押立・矢野口・百村・坂浜・平尾などの村落が点在しており、「稲城」という地名はまだ存在していなかった。これが1889(明治22)年4月1日に、矢野口・東長沼・大丸・百村・平尾・坂浜の各村が合併し、神奈川県南多摩郡(当時の稲城市域は神奈川県)稲城村が成立した経緯については、次のような説が有力であるという。
村の母体となった東長沼外五か村連合の戸長であり、初代村長となった森清之助が、新しい市域の名前を窪全亮に諮問すると、全亮は「稲穂」と「稲城」の二候補を示した。結局、矢野口や東長沼、大丸の地にその昔、小沢城・長沼城・大丸城などの城があったという歴史的な事実と、ここが古来、稲の産地で良い米がとれたという理由から「稲城」が選定された。
 
「奚疑塾」は、現在の旧鶴川街道の八坂神社の向かいにあり、今その場所には「窪全亮先生頌徳碑」が建てられている。碑の裏手には庭木の間に踏み石が埋め込まれたスペースがあり、ここが全亨の庭跡であることを彷彿とさせる。そこから少し市役所方向に歩いたところに奚疑公園もある。窪全亮は、1913(大正2)年5月11日に67歳で死去し、号は素堂。漢詩集に「古素堂詩鈔」がある。
 
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