よみうりランド丘の湯の敷地内にある秋月藩黒田家の薬医門
以前から「よみうりランド丘の湯」の駐車場出口に立派な黒門があるのに気づいていたが、当コラムの「大名の江戸屋敷跡探訪」の取材地を探していると、この門が筑前秋月藩の藩主、黒田氏の屋敷門であることがわかり驚いた。
秋月藩は福岡藩の支藩で、黒田官兵衛の嫡男で福岡藩の初代藩主、黒田長政の三男の長興が福岡藩より5万石を分知され、1623(元和9)年に立藩した。福岡城内にて長政と栄姫の間に生まれた黒田長興は、1624(寛永元)年に秋月(福岡県朝倉市)に入り、廃城となっていた秋月城を大幅に改修して陣屋を置き、黒田直之(黒田官兵衛の異母弟)の屋敷を増改築して居住した。長興はその優秀さゆえ、黒田本家を継いだ兄、忠之や福岡藩の重臣たちから存在を恐れられ、藩内でも家老の対立などの混乱が続いたが、筑後川支流域の新田開発や藩内の交通の整備も行い、藩政を確立したという。
1871(明治4)年の版籍奉還により、12代に渡り藩主を務めた黒田家は東京に居を移したが、1896(明治29)年、福岡の黒田家の屋敷門も赤坂の黒田藩邸跡に移築され、以来「溜池の黒門」として親しまれたという。その後、1968(昭和43)年に、黒田家の親戚の大木久兵衛氏から、正力松太郎氏に寄贈され、当地に移築された。「よみうりランド丘の湯」の夕涼みテラスで見る黒門は、外側から見たそれと違い、実に威風堂々としたものであった。
門の傍にある解説版によると、この門は「一間薬医(やくい)門」と呼ばれる形式で、切妻造、両袖潜戸(くぐりど)付、総本瓦葺の構造を持つ。薬医門は建築史上、桃山時代以降によく見られるもので、本来は公家や武家屋敷の正門などに用いられたが、扉をなくして医家の門として用いられたためこの名がついたと言う。当地の門はケヤキの化粧材を用いており、天井を張らず板扉も一枚板を使い杢目(もくめ)の美しさを誇っている。さらに柱の上の組物(横に伸ばした肘木〈ひじき〉の先端に斗〈と〉を乗せ、荷重を分散させるもの)などの彫刻は入念な意匠と力強い構成で、日本建築の伝統美を感じさせるものであるという。
柱に手を振れてこの門が黒田家の屋敷を守っていた時のことを考えてみる。目を開いて見上げると、瓦屋根の上空に、色とりどりの観覧車のゴンドラが見えた。
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