新宿御苑 大木戸門脇に植えられた高遠桜の案内札
江戸時代、旗本・御家人や大名には、幕府から屋敷用地が与えられ、江戸屋敷と呼ばれた。よく聞く「藩邸」の呼び名は後世に造られた歴史用語で、この時代は屋敷を使う武家の名前を付けて「○○家屋敷」と言うのが一般的だった。江戸屋敷は用途や江戸城からの距離によって上屋敷、中屋敷、下屋敷などの種類があった。上屋敷には参勤交代で領国から江戸に来る大名が居住し藩の政務を行ったり、人質として江戸に常住する大名の正室と嫡子が住んでいた。大名が帰国すると、江戸留守居役が留守を預かり、幕府や領地との連絡を務めたという。
上屋敷よりは江戸城から遠い中屋敷には、隠居した主や成人した跡継ぎが住むことが多かった。そして大半が江戸の郊外に築かれた下屋敷は、庭園や本国からの米や各物資の貯蔵庫(蔵屋敷)などが築かれるなど、別邸としての役割が大きかった。江戸市中はしばしば大火に見舞われたが、その際の大名の避難場所としても使用されたという。ところで幕府は、こうした江戸屋敷に犯罪者が逃げ込んでも捜査権を行使できなかったため、幕末などは過激派浪士たちの隠れ家となったりした。また江戸中期までは将軍の直々の「御成り」もしばしば行われたため、莫大な費用をかけて庭園や能舞台を造成、改築する家もあったという。
現在、都内に残る広大な庭園は、実はこの大名屋敷跡であることが多い。例えば新宿御苑は、もともと譜代の家臣、内藤家2代目の清成が家康から拝領した土地であった。その後、7代内藤清枚が領地を信濃に移され、3万3千石の高遠藩主となった。その時、内藤家は新たに神田小川町を上屋敷として拝領し、新宿を下屋敷としたという。内藤家下屋敷には豪華な建物はなかったが、のどかな田園風景が広がり、地域の住民たちの憩いの場にもなっていたという。現在、御苑の大木戸門の脇には、ここが高遠藩領主の下屋敷であったことを示すように、高遠小彼岸桜が植えられている。
元禄11(1698)年、幕府は内藤家の下屋敷の一部を返還させ、町屋とともに馬継ぎの施設を設けて甲州街道の宿駅とした。それにより、この地は「内藤新宿」と呼ばれるようになったという。
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