東海道平塚宿は神奈川県内の東海道9宿のうち、8番目の規模の宿場である。隣の大磯宿からの距離は27町(約3キロ)と短く(東海道の宿間の平均距離は9.3キロ)、東海道の中では御油宿~赤坂宿間(16町)、石薬師宿~庄野宿間(25町)に次いで3番目の短さであった。
また東海道成立以前、慶長元(1956)年と翌年の伝馬手形に関する史料にはまだ平塚宿の記載がなく、伝馬の宿として固定していなかったことも分かる。このように本来の宿駅としては必要性が薄かったにもかかわらず、どうして平塚宿は作られたのだろうか。
その理由の一つが、隣村の中原に慶長元年に造られた中原御殿の存在であった。中原御殿は徳川家康が鷹狩りの際に使用した宿で、家康はここを頻繁に訪れ、民情視察や論功行賞を行い、後には中原代官陣屋ができて相模国中郡の支配の拠点となったという。つまり平塚宿は、中原御殿との中継基地としての必要性から、設置されたのではないかと推測されるというのだ。
JR線・平塚駅からバスで5分の「古花水」で下車してすぐの国道1号線・古花水橋の信号そばに、「平塚宿上方見附跡」の碑がある。「見附」とはもともと城下に入る人々を監視する見張り門のことで、宿見附も宿場の出入り口に防御施設として設置されたものであった。一般的に宿見附は東西に2箇所あり、京都側のものを「上方見附」、江戸側のものを「江戸見附」と呼び、この間を宿内としていた。
平塚宿では当地の上方見附と、駅歩5分の崇善公民館前に江戸見附が設けられ、その約1.5キロの間に本陣、脇本陣、東西問屋場、高札場、旅籠などを含む町並みが続いていた。見附は当時、東海道の両側に東西に少しずらして設置され、石垣で固めた土台の上には竹矢来が組まれていたという。
梅雨の晴れ間のある日、古花水の上方見附跡を訪れると、石垣の土台の上には笹の葉が生い茂り、いかにも涼し気だ。ふと中空に目をやると、お椀を伏せたような高麗山がぽっかりと佇んでいる。歌川広重が描いた「平塚宿」の風景は、いまもこの地に息づいているのだとうれしくなった。
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