大磯宿南組問屋場跡
大磯宿南組問屋場跡
 
前号でご紹介した大磯宿、小嶋家本陣跡から国道1号線を南へ少し歩いた「照ヶ崎海岸入口」の信号近くに「大磯宿南組問屋場跡」がある。問屋場とは江戸時代の街道の宿場で、人馬の継立や周辺の助郷村落から人足や馬を動員する業務を行う宿駅の事務所のようなものであった。
問屋場には代表の問屋(たいがいは村の名主)を中心に、補佐役の年寄や、人馬の出入りや賃銭などを記入する帳付、人馬に荷物を振り分ける馬指などの宿役人がいた。彼らは通常は交代で出勤していたが、大名行列などがあるときは全員が詰めることになっていたという。
大磯宿には北と南の2か所に問屋場があり、駄賃(1文を12円で換算)は、荷(5貫まで)が約1670円、人と荷(5貫まで)が約2200円、人と荷(20貫まで)が約3320円であったという。
 
ところで、この南組問屋場跡の立札のある小さな緑地には、明治の教育家・新島襄の終焉の地碑が立てられている。
襄は天保14(1843)年、江戸の安中藩の藩邸内で藩士の新島民治の長男として生まれた。幕末から明治にかけての近代日本の黎明期に育った襄は、元治元(1864)年に箱館(現在の函館)より脱国して米国に渡って学び、キリスト教主義教育による人民教化を行うべく10年後に帰国した。
そして明治8(1875)年、幾多の困難を乗り越えて京都に同志社英学校を設立し、その後も同志社大学の設立を目指し全国を奔走し続けた。
 
だがその途で病にかかり、明治22(1889)年12月より、松本順が医療の目的で開設した海水浴場のある大磯の地で療養していたが、翌年1月、46歳と11か月の生涯を閉じた。襄が最期の時を過ごしたのは、当時、海岸近くにあった百足屋旅館の別館で、相模湾を見渡せる丘上の大きな松に囲まれた「愛松園」であった。
愛松園は現在、残されていないが、昭和15(1940)年、襄の門下生らによって、旧百足屋の敷地内に新島襄の終焉の地碑が建てられたという。
 
新島襄の終焉の地碑
徳富蘇峰の筆による新島襄の終焉の地碑
 
 

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