説明版
旧東海道松並木にある広重筆「大磯宿」の説明版
 
前回に続き、旧東海道大磯宿のお話である。旧道の松並木には、大磯宿の説明とともに歌川広重作「東海道五拾三次 大磯宿」の絵が掲げられているが、雨がそぼ降る大磯宿を往く旅人たちの絵には「虎ヶ雨」と書かれている。「虎ヶ雨」は俳句の夏の季語でもあるが「虎」とは一体、何のことなのだろう。鎌倉時代の有名な軍記『曽我物語』から「虎ヶ雨」の所以をお話したいと思う。
 
平安時代末期、伊豆の豪族、伊東祐親から河津荘を相続した子の河津祐泰は、所領相続問題で恨みを買い、同族の工藤祐経に暗殺された。祐泰の妻は5歳の十郎祐成と3歳の五郎時致を連れて、相模国曾我荘(現在の神奈川県小田原市)の領主、曾我祐信と再婚した。
鎌倉時代に成立した公式文書『吾妻鏡』によれば、1193(建久4)年5月28日、曽我十郎祐成は、源頼朝が催した富士の裾野の巻狩で、弟の時政と共に父の敵である工藤祐経を殺害し、その場で仁田忠常に討たれた。時致も取り押さえられ、翌日、斬首された。その後の6月1日、祐成の妾の「虎」という大磯の遊女が召し出され、訊問されたが無罪だったため放免された。虎は6月18日に箱根で祐成の供養を営み、祐成が最後に与えた葦毛の馬を捧げて出家して信濃善光寺に赴いた。その時、虎は19歳だったと記されている。
虎の出生については諸説あるが、母は平塚の遊女「夜叉王」で、父は都を逃れて相模国海老名郷にいた宮内判官家永だとされている。虎は高麗山の近く(現在の平塚市山下)の大磯の長者のもとで育てられ遊女となった。一方、祐成と弟の時致は早くから父の仇を討とうと考えていたので妻妾を持つことを考えなかったが、虎と十郎は出会ってすぐに恋に落ちた。虎17歳、十郎20歳であった。
信濃善光寺から大磯に戻った虎は、高麗寺山北側の山下に庵を結び、菩薩地蔵を安置して夫の供養に明け暮れる日々を過ごしたと、高麗寺の末寺である荘巌寺に伝わる『荘巌寺虎御前縁起』に記されている。虎御前はその小庵で63年の生涯を閉じたという。
 
大磯宿の浮世絵に記された「虎ヶ雨」とは、曽我十郎祐親が討ち入りの末に果てた陰暦5月28日、つまり現在の暦で梅雨の頃に降る雨のことで、虎御前が流した涙雨に例えられたものなのである。この旧道の松並木が国道1号線と合流する手前には、虎御前が使ったと伝えられる井戸跡が残り、そのあたりはいまも「化粧坂」と呼ばれている。
 
 
地図
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