北向地蔵と馬頭観音
旧津久井道沿いに立てられた北向地蔵と馬頭観音
 
麻生区の中心部を東西に貫く津久井街道は江戸時代、津久井の特産品の絹や、柿生の禅寺丸柿、黒川の炭など近隣の物産を江戸へ運び、帰路に塩や雑貨などの江戸の品々を持ち帰る流通の道であった。その街道筋が多摩川を越えるところにあったのが登戸宿である。登戸宿は中原街道の小杉宿や、大山街道の溝口宿などに比べると発展が遅れたが、19世紀の初めに相模原地方の絹が江戸呉服商と直接取引されるようになると栄えはじめ、その後は両宿を凌ぐ賑わいを見せたという。
 
今も登戸駅周辺には、旧宿場の名残が所々に残されているが、その一つが登戸駅から小田急線のガードをくぐり、西向きに少し歩いた四辻の祠(ほこら)に祀られた石仏たち。子育て地蔵として特別の御利益があると信じられ親しまれてきたという北向地蔵と、馬の保護神として登戸村源之助はじめ高井戸村鍋五郎、大丸村大八らが中心となり建立した「馬頭観音」である。馬頭観音は近世以降、馬が移動や荷運びの手段として多く使われるようになったことに伴い、路傍や馬捨場などに供養塔として祀られるようになったものである。祠の前で手を合わせ石仏に近づくと北向地蔵の側面には、はっきりと「文政十年」という建立年の文字が刻まれていた。
 
この祠の向かいにあるのが、江戸後期から創業している「吉澤石材店」だ。多摩川の小田急線鉄橋下には、当時「石屋河岸」と呼ばれる船着場があり、ここで伊豆をはじめ各地から運ばれてきた石材が荷揚げされていた。石はおもに真鶴の小松石や川津石などで、帆船に積まれて多摩川を上ってきたという。
 
石材店の前の道を西に少し行くと、天保元年創業の「柏屋」がある。登戸宿は小杉や溝口宿に比べて盛り場的な賑わいのある宿場だったというが、その中で宿屋を営んでいた柏屋は明治の末、料理屋も兼ねるようになった。行楽客たちに多摩川でとれた鯰など川魚料理を振る舞い喜ばれたという。店の前には昭和のはじめに画家の飯田九一と柏屋を訪れた俳人・巌谷小波の碑が残されている。
「小春日や日本一の腹加減」
 
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