石仏群
麻生区王禅寺の「村境の石仏群」
 
麻生区王禅寺のバス停「延命地蔵尊」近くの空き地に、数体の石仏が集められた「村境の石仏群」がある。その案内板には「これらは日吉谷戸から集められたさまざまな石仏で、村人たちはこれらを民間信仰のシンボルとした行事を行い、村の連携を深めていた」というようなことが書かれていた。
 
その石仏群の中央より向かってやや左寄りにあるのが「庚申塔」(または庚申塚)と呼ばれる石仏。これは中国より伝来した道教に由来する「庚申信仰」のシンボルで、人間の体内にいる三尸虫(さんしちゅう)という虫が、60日ごとに訪れる干支の「庚申」の夜、天帝に人間の悪事を報告し、命を縮めると考えられていた。村人たちはこの難を逃れるため、庚申の夜に皆で集まり、眠らずに飲食したり勤行をする「庚申待ち」を行ったのである。
 
庚申信仰は、日本では平安時代に貴族たちの間で始まったとされ、鎌倉時代以降は武家社会にも広まった。江戸時代になると、この民間信仰が仏教の守護神の青面金剛と結びつき、病魔を払い悪疫を防ぐため、村々の辻などに多くの庚申塔が建てられたという。塔は庚申待ちを3年18回続けた記念に建てられることが多かったが、こうした行事は村の人々にとって、社交の場であるとともに、互助の役割も果たしていたのである。
 
庚申塔の表面をよく見てみると、中央に「青面金剛」が立って邪鬼を踏みつけ、その下に青面金剛の神使である3匹の猿(見ざる、聞かざる、言わざる)がいる。庚申塔は一般的には、主尊として青面金剛が彫られることが多いが、その他、地蔵や阿弥陀菩薩や神道の猿田彦神が主尊になるものもある。また日待や月待信仰を意味する太陽や月、鶏などが彫られる場合もあり、台座には建立年の年号や、寄進した講中の人々の名などが刻まれている。こうした庚申塔も江戸中期以降は「庚申」や「庚申塔」などと、文字のみ彫られたものが増えていったという。
 
明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信として全国の庚申塔の撤去を進めた。その後、道路の拡張整備工事などにより、残存した庚申塔のほとんどは撤去されるか、または寺社の境内などの私有地に移された。撤去を免れ、長い年月をどこかの道ばたでひっそりと佇んでいただろう庚申塔を眺めていると、遠い昔の庚申の夜の、人々のさざめきが聞こえてくるようであった。
 
庚申塔
石仏群の中の庚申塔
 
 
地図
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