碑、寺
左/大丸自治会館前に立つ、大丸尋常小学校跡の碑、右/かつて大丸尋常小学校があった円照寺の山門前
 
寺の境内を歩いていると「○○小学校発祥地」と刻まれた碑を目にすることがある。南武線・南多摩駅から徒歩7、8分の所にある円照寺に隣接する大丸自治会館前にも「大丸尋常小学校跡」と刻まれた石碑が立てられている。この「尋常小学校」が開校していたのは、一体いつ頃の時代のことなのだろうか。
 
日本で最初に教育制度が成文化されたのは、701年に中国の唐の国子監制度を元にした「大宝律令」である。一般庶民に学問が普及するのはそれからさらに千年後の江戸時代のことで、幕末にかけては国学、自然科学などが発達した。諸藩では藩校や郷学、私塾などを設立して子孫教育を行う一方、庶民の教育機関として寺子屋も開校された。
 
明治維新後の明治5(1872)年8月、新政府は日本最初の近代的学校制度を定める学制を発布した。これは全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画したもので、身分や性別に区別ない国民皆学を目指した。この教育令はその後、何度か改正が加えられたが、明治19(1886)年よりこれに代わって、学校令(初等・中等・高等の学校種別を規定する複数の勅令)が随時、出されていく。第一次小学校令では、小学校を尋常小学校と高等小学校の2段階に分け、尋常小学校の修業年限4年を義務教育期間としたが、明治33(1900)年には2年の高等科を併置し尋常高等小学校となる学校が増加した。さらに明治40年には小学校令の一部改正により、小学校修業年限を6年に延長し、12~13歳を高等小学校の1~2年とした。
 
昭和16(1941)年になると、国民学校が設置され、尋常小学校は国民学校初等科に、高等小学校は国民学校高等科となった。第二次世界大戦後、占領軍のもとで「教育の民主化」が唱えられ、昭和22(1947)年3月に学校教育法が出された。これにより旧制の教育や学校体系を規定した諸学校令は順次廃止されて新制の学校教育制度(国民学校初等科は小学校となり高等科は新制中学校に改組)が確立され、現在に至るのである。
 
明治の初期の頃は、地域の昔からある寺が学校として使われることが多く、稲城市大丸の臨済宗建長寺派円照寺も、明治3年に「大門学舎」が創立したのを皮切りに、「大円学校」(明治7年創立)、「済美学校」(明治11年創立)の教場として使われた。この後、この地には稲城市第三小学校の前身である大丸尋常小学校が建てられたのである。
 
 
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