前々回紹介した三鷹市野崎の「鷹場標石」のすぐ近くに、「なんじゃもんじゃの森」と呼ばれる三鷹市の子ども林間研修広場がある。ここは明治時代、多摩地域の自由民権運動のリーダーとして活躍した吉野泰三の曾孫、吉野泰平氏の地所を三鷹市が借用し、研修広場として整備したものである。この「なんじゃもんじゃの森」という呼び名は、もともとこのあたりに屋敷林を巡らせた吉野家の敷地の梅畑の一角の中央に、なんじゃもんじゃの木があったことに由来しているという。この木について泰平氏は「明治30年頃、泰三の子の泰之助が、新宿区戸山にあった練兵場でその幼木を入手し、自宅(かつては泰三が住んだ家)に持ち帰って植えたものである」と伝えている。
吉野泰三は、天保12(1841)年、三鷹の野崎村で生まれ、家業の医業を継いだ。吉野家は江戸時代より三鷹の野崎村の名主を務める家で、18世紀初めの亨保の頃、西多摩郡の檜原村からこの地に移ったと伝えられている。幕末には、隣接する大沢村の名主の宮川家(近藤勇の生家)と交流を持ち、吉野家の当主として野崎村の名主を務めた泰三も、近藤勇の甥で娘婿の近藤勇五郎(1851~1933)と親交を深め、支援を受けていたという。
泰三は明治12(1879)年に神奈川県議会議員(三鷹や稲城、町田などはこの時代、神奈川県に属していた)となり、明治14年に自治改進党を作って、翌年、自由党に入党した。当時の神奈川県議会は泰三や町田の民権家、石坂昌孝らの自由党が多数派を占めていた。また、小田原の士族出身で評論家であり詩人の北村透谷とも交流を持ち、近年、吉野家文書の中から透谷が泰三に宛てた書簡が発見されている。この書簡は自由党が分裂していた明治22年頃のもので、当時、多摩の東京府移管を推していた泰三は、これに反対する盟友の石坂と袂を分かっていた。石坂昌孝の娘と結婚していた透谷は、義父ではなく、泰三と同じ賛成の意を示していたのである。
泰三は、明治29(1896)年、56歳で没するが、その子の泰之助が家の庭になんじゃもんじゃの木を植えた。植樹した木は、実際は「ヒトツバタコ」という大変に珍しい木で、中部から東海地方の長野、岐阜、愛知県の一部にしか分布しない遺存種であった。幼木から推察すると、樹齢約100年にはなるという「なんじゃもんじゃの木」は、いまも空に向かって枝を大きく伸ばし続けている。
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