小休所址の碑
旧与瀬宿に立つ明治天皇小休所址の碑
 
相模湖駅から国道20号線を10分ほど、西に歩くと旧与瀬宿に入る。天保年間の記録によると、与瀬宿は東西約750mほどの規模で、本陣が1軒と6軒の旅籠があり、宿内には88軒の民家があったという。
 
ところで与瀬宿と前回紹介した小原宿は、同じ与瀬村の中にあり、小原宿は、小仏宿から小仏峠を越えて来た人や荷物を与瀬宿を通り越して次の吉野宿まで継ぎ立て、与瀬宿は吉野宿から来た人や荷物を、小原宿を通り越して小仏宿まで継ぎ立てるという「方継ぎ」の宿で、両宿で上下の通行を担っていた。このように二つ以上の宿で、ひとつの宿の機能を持つ宿を「合宿」と言い、甲州道中は山あいにあって小規模の宿が多かったため「合宿」が多くあったという。与瀬宿の次の吉野宿と関野宿も合宿で、小原・与瀬・吉野・関野の相模国津久井県の四宿を「相州四か宿」と呼んでいだ。
 
与瀬宿の名主は坂本家で、問屋と本陣も兼務していたが、その建物は残っておらず、いまは「旧本陣」と書かれた門柱が残るのみだ。その敷地脇のこんもりとした緑の中に「明治天皇与瀬御小休所址」と刻まれた石碑が立っている。そして甲州道中を歩いていると、次の吉野宿や上原宿など、至る所でこのような聖蹟を目にする。
 
明治天皇は、1872(明治5)年の九州・西国巡幸に始まり、1885(明治18)年の山口・広島・岡山巡幸に至るまで、六大巡幸と言われる全国各地におよぶ長期大規模巡幸を6回行っている。そのうちの一つが、1880(明治13)年の6月16日から7月23日までの38日間にわたる山梨県、三重県、京都府の御巡幸。伏見宮貞愛親王および太政大臣三條實美ら300余名が供奉して赤坂仮御所を出発し、府中、八王子、上野原、黒野田(笹子)、甲府、台ケ原、金沢(上諏訪)の本陣などを行在所とし、その間の主な宿場本陣で小休止されたという。与瀬宿に立てられた碑は、まさにここで明治天皇がご休憩されたことを物語るものである。記録によれば、与瀬宿では本陣の坂本家で小休止をとり、隣の吉野宿で昼食を取られたという。碑が建てられた場所の先から分岐する旧甲州街道の小道に入り、目を閉じると、天皇を乗せた馬車と300人の大行列が通りすぎる音が聞こえてくるようだった。
 
 
第78回地図
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