登戸稲荷社
今も村の鎮守様の雰囲気を残す、登戸稲荷社
 
前回のタイムトリップでは、江戸時代、津久井街道の宿場町であった登戸宿の話をしたが、登戸はその昔から、職人が多く住む町であった。中でも建物の壁や床、土塀などを「鏝(こて)」を使って塗り仕上げる左官職人が多く、その腕の良さは、関東一円に知れ渡っていたという。
 
登戸駅から10分ほど歩き、多摩陸橋をくぐったところにある登戸稲荷社には、当時の左官職人たちの腕をうかがい知ることのできるものが残されている。登戸稲荷社は、武田氏の家臣である吉沢兵庫という人物がこの地で帰農した際、その邸内に鎮守として建てたのが始まりと伝えられている。以来、登戸村の鎮守様として信仰を集めてきたが、江戸時代の寛政年間(1800年の初め)に火災で焼失した。稲荷社の本殿はこの後の再建と伝えられるが、その外壁に当時の左官職人によって描かれた「鏝絵(こてえ)」が現存しているのだ。
 
鏝絵とは、漆喰を用いて作られるレリーフのことで、財を成した豪商や網元が母屋や土蔵を改築する際に、外壁の装飾として用いたものだ。鏝絵は家主の富の象徴であったため、その多くが着色された漆喰を用いて極彩色で表現されていたという。左官職人が鏝一本で仕上げたことからこの名がついたが、鏝さばき一つでまるで立体の絵のように仕上げる技には、眼を見張るものがあり、職人らの自慢の腕の競いどころとなっていた。1815(文化12)年に伊豆の松崎で生まれ育った入江長八(伊豆長八)は、その緻密な技法と彩色で鏝絵を芸術の域に高めたが、明治になって東京左官組合が発行した「左官職工事業各等級」には、壁塗りを行う「普通」の他に「美術」という区分が設けられており、このことを物語っている。
 
蝉しぐれが流れる夏のある日、登戸稲荷社を訪れると、本殿の外壁にはるか200年前もの鏝絵が、惜しげもなくその姿を見せていた。繊細かつ迫力あるタッチで描かれた、宙を駆け抜けるキツネや波間を泳ぐ龍。鏝絵の中には、何人かの左官職人の名前が記されていたが、一説によれば伊豆の長八の高弟であった江戸芝の庄太郎の作とも伝えられている
 
  • 登戸稲荷社の本殿外壁に残る江戸時代の鏝絵
 
 
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