標石
三鷹市野崎に立つ鷹場区域の標石
 
江戸時代、江戸城を中心に五里(約20km)以内の地域は幕府の「鷹場」に指定されており、その外側(江戸より五里~十里の間)の村々は、尾張・紀伊・水戸の御三家と御三卿や御家門、有力大名の鷹場に貸与され「御借場」と呼ばれていた。市の名前が「鷹」に由来して名付けられたと予想される「三鷹市」の野崎には、江戸時代の「鷹場」に関係の深い標石が残されている。
 
1770(明和7)年頃に築かれたとされるこの石杭には「従是東西北尾張殿鷹場」と刻まれており、その隣の案内板には「三鷹の北西部井口、大沢各新田は尾張家の鷹場として定められており、尾張家の鷹場は北多摩から埼玉南部までの広大な地域に及んでいた」ということが書かれている。つまり標石に刻まれた「従是東西北」という文字は、当時の三鷹がちょうど尾張家の鷹場の南の境界に当たる地域だったことを示しているのである。
 
三鷹市内にはかつて、このような石杭が大沢新田・野崎新田・井口新田などに7基立てられていたが、現在はここ野崎と市役所南側の雑木林、大沢の長久寺境内に3基のみ現存しているという(移築元は不明)。ちなみにこの3つの新田は、18世紀初めに幕府が行った武蔵野新田開発により誕生した地域で、「三鷹」の地名は、1889(明治22)年、野方・世田谷・府中の3領に分かれていた鷹場の10の村々が合併したことから名付けられたといわれている。
 
日本で鷹狩がいつ頃始まったのかは定かでないが、群馬県佐波郡境町から鷹匠の埴輪が出土していることから、5~6世紀頃にはすでに行われていたと考えられている。律令時代になると、天皇や貴族のみならず、一般庶民にも鷹狩が普及したが、平安時代になると鷹狩は天皇の大権となり、禁野と呼ばれた狩場に庶民は立ち入ることができなくなった。武家政権の時代、鷹狩は御家人たちや守護や地頭の間で好まれ、戦国期には織田信長や、特に豊臣秀吉に愛されたという。そして江戸時代になると、幕府は有力大名や公家の鷹狩を禁止し、以後、鷹狩の統制が最高権力者の証となったのである。
 
ところで鷹場には鷹匠が鷹を調教する「御捉飼場」があり、その地域の村々では、泊まりながら鷹の調教をする鷹匠に、宿や人馬の提供や鷹の餌となる鳥を供給していた。稲城市にある小沢城址の山道を歩いていると、川崎市多摩区菅仙谷の方に開けた木々の切れ目に「その昔、ここから鷹ノ巣と呼ばれる鷹匠の家が見えた」という立札が立っている。
 
地図
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