地蔵
城下の信号付近にある六地蔵
 
府中街道の稲城市矢野口交差点の交番横に高さ1メートルほどのお地蔵様を祀ったお堂がある。そこから数百メートル歩いたコンビニの向かいに一つ。さらに数百メートル歩いた本・DVD・雑貨店の向かいにまた一つと、多摩区を走る府中街道の約2.5キロにわたって、六つの地蔵堂がある。これは「菅の六地蔵」と呼ばれるもので、かつての菅地区の東西の入り口に一体ずつと、その間に四体がほぼ等間隔に並んでいる。お地蔵様の台座には「功徳主 武州橘樹郡 菅村衆中 宝永四丁亥歳 三月吉日 化縁比丘 宗縁謹誌」という文字が刻まれており、これらが1707(宝永4)年に菅村の人々によって立てられ、信仰されてきたことが分かるのだ。
 
地蔵とはもともと仏教の一尊で、浄土信仰が普及した平安時代以降、人々の苦難を身代わりとなり受け救う代受苦の菩薩とされた。特に子どもの守り神として祀られるほか、道祖神と習合し、全国の路傍で石像が数多く祀られるようになった。六体の地蔵の意味は、仏教の六道輪廻の思想(天上界・人間界・修羅・餓鬼・畜生・地獄の六道をさまようすべての生命を六地蔵が救う)に基づくものだという。
 
「菅の六地蔵」の由来については次のような話が伝えられている。
その昔、菅村の馬場の代官屋敷に六地蔵が祀られていたが、ある時、山崩れが起き、屋敷もろとも埋まってしまった。すると、しばらくして村内に子どもの疫病が流行し、それは埋まった六地蔵を放置しているせいだという噂が広まった。そこで村民たちが協力して地蔵を掘り出し、六体を街道沿いに離して立て供養したところ、疫病がおさまった。以後、村民はこの六地蔵を篤く信仰するようになったという。六地蔵のうち二体のお地蔵様を祀っている地蔵堂には、こんな話も残されている。1707(宝永4)年に菅村の人々によって街道筋に立てられた、俗称「出店地蔵」は傷みがひどくなったため、1961(昭和36)年8月に上北浦と旧名新田の人々により新しいお地蔵様に立て替えた。そして旧地蔵を川崎市の民家園に寄贈した。ところがそれ以後、新しいお地蔵様のお堂の付近で自動車事故が多発した。そこで旧いお地蔵様を戻す方が良いのではないかとの声が広がり、1982(昭和57)年11月にもとの位置に安置したという。
 
菅の六地蔵は、1978(昭和53)年11月に「菅六地蔵保存会」が結成され、今も菅の人々に大切に保存されている。
 
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