吉野宿ふじや
吉野宿ふじや
 
中央本線・藤野駅から、歩いて25分くらいのところに「甲州道中」10番目の宿場である旧吉野宿がある。甲州道中は日本橋から甲府を経て、信濃の下諏訪宿に至るまでの53里の道のりに、38の宿場が置かれていたが、吉野宿は相模国に入り、小原宿と与瀬宿(当コラムの77回と78回でご紹介)に続く3番目の宿場であった。
国道20号線に沿う旧吉野宿の跡には、道の北側に古い土蔵と、明治13年の明治天皇巡行聖蹟碑が建てられている。この吉野宿に最後に建築された本陣は、江戸末期から着工し明治9年に完成したもので、五層楼を持つ壮大な建物であったという。
 
ところが明治29年に吉野町が大火に遭い、本陣は焼失。本陣に囲まれるようにして建っていた土蔵だけが今に残されている。ちなみにこの吉野の大火は、暮れも押し迫った19時30分頃に出火し、折からの強風で町全体に瞬く間に燃え広がった。135戸の民家はじめ役場、学校、病院、郵便局、駐在所など主要施設を焼き尽くす記録的な大火だったという。
 
道路を挟んで本陣跡の南側に建つ郷土資料館「吉野宿ふじや」は、宿場町時代、「藤屋」という旅籠として営業していた。明治29年の大火の際に同じく焼失し、翌年の明治30年頃に、旅籠としてではなく、2階と屋根裏部分に蚕室を持つ養蚕農家として再建されたという。その後、平成元年に旧所有者から旧藤野町に建物が寄贈され、平成3年、郷土資料館「ふじや」として開館。平成25年にリニュアルオープンし、今に至っている。
 
山深い吉野では、養蚕や炭焼きが生活の糧で、現在でも山の傾斜地などに造られた桑畑の名残を見ることができるが、「ふじや」の2階には、地元で出土した土器や当時の人々の生活用具の他、こうした養蚕業に関する展示も行われていた。また、1階の畳部屋は、訪れた人たちが自由に休憩できるようになっていたが、ここになぜか芭蕉関係の史料が多数展示されていた。
たまたま居合わせた館長さんにお聞きすると「芭蕉は深川の庵が火事になり、初狩の知人を頼って、甲州道中を旅したのですよ」という。そういえばこれまでの道中で、何回か芭蕉の句碑と出会った。芭蕉は奥の細道だけでなく、この街道も旅していたのかと思ったら、なんだか嬉しくなった。
 
 
第80回地図
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[INFORMATION]
吉野宿ふじや
問合せ:042-687-5022
観覧日:土・日・祝日など(12/28〜1/3を除く)
観覧時間:10:00~16:00