麻生区・新百合ヶ丘エリアの地域情報紙 マイタウン > 連載・コラム SERIES > 風のタイムトリップ > 【風のタイムトリップ vol.62】鎌倉幕府滅亡に 追いやった 分倍河原古戦場の跡

連載・コラム SERIES

【風のタイムトリップ vol.62】鎌倉幕府滅亡に 追いやった 分倍河原古戦場の跡


 
 当コラムでも何度かご紹介しているように、麻生区には中世から北関東と鎌倉をつなぐ鎌倉古道が通っている。鎌倉道とは源頼朝と主従関係を結んだ武士団が忠義を尽くすために「いざ鎌倉」とはせ参じる道で、各武士団は、いち早く鎌倉に到着できるよう、それぞれの所領から鎌倉までの道を自発的に整備していた。だが皮肉なことに、鎌倉幕府が滅されたのも鎌倉道を南下して攻め入った北関東の武士らによってであった。
 1333(元弘3)年5月、新田義貞率いる反幕府勢力は上野国新田荘で幕府打倒の挙兵をした。そして鎌倉道を上り、府中市の分倍河原にて幕府軍を撃破すると、その勢いで鎌倉に攻め入り、討幕をなし遂げたのである。
 新田庄で挙兵した時の新田軍は、義貞一族の総勢150騎ほどであったというが、その後、越後の新田党や、甲斐と信濃の源氏一派が合流し、7千騎に及んだ。さらに利根川を越えた所で足利高氏(後の尊氏)の嫡子の千寿王(後の足利義詮)が合流し、外様の御家人の最有力者である高氏の嫡男が加わったことにより、幕府に不満を持った下野、武蔵、上総、常陸などの武士たちが次々と加わって、新田軍は20万に膨れ上がったという。
 入間川を渡った新田軍は、桜田貞国率いる幕府軍を小手指や久米川で破ると、武蔵国最後の砦であった多摩川の分倍河原まで幕府軍を撤退させ、攻撃を開始した。だが5月15日、新田軍は北条高時の弟、北条泰家を大将とする10万の援軍を得た幕府軍に迎撃され、狭山市掘金まで撤退を余儀なくされた。ところが翌日、援軍に駆け付けた三浦義勝の策で明け方に幕府軍を急襲し、幕府軍は敗走。多摩市関戸で壊滅的な打撃を与えた。
 京王線・中河原駅から徒歩10分ほどの新田川分梅公園には、「分倍河原古戦場跡の碑」が建てられている。公園はせせらぎに沿う気持ち良い緑道となっており、ここから多摩川にかかる関戸橋までは歩いて15分ほど。川の土手上に立つと、700年前、戦を見ていたであろう多摩川がとうとうと流れ、夏草の生い茂る河原がどこまでも続いていた。
 
分倍河原古戦場碑
中河原駅近くの新田川分梅公園に立つ「分倍河原古戦場碑」。
 
公園内のせぜらぎ
公園内のせぜらぎでは、散歩の途の犬が水浴びをする光景も。
 
関戸橋周辺の多摩川土手
関戸橋周辺の多摩川土手。今ではジョギングやサイクリングのメッカ。
 
62回地図

カテゴリー
CATEGORIES

連載・コラム SERIES