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【風のタイムトリップ vol.8】戦国武将から江戸幕府の旗本となった早野の殿様の墓


 
 早野にある曹洞宗の寺、戒翁寺に至る小道の途に「戒翁寺 殿様の墓」という案内板がある。畑の脇道を歩いてゆくと、木々の生い茂る小さな丘(御堂山という)があり、そこに4つの石造りの五輪塔が建っている。

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 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』等によれば、この墓は戦国時代、後北条氏に仕え、その後徳川家康の家臣となった冨永主膳重吉とその一族のものであるという。竹林を背にした静かな墓所に並ぶ2メートルほどの石塔は、一番左が冨永重吉の墓碑、その隣が重吉の妻、その右が子の墓碑らしい。川崎市の史料によれば、石材はいずれも伊豆地方産の安山岩製で、五輪塔のうち2基は、全体を一石で造る一石五輪塔と呼ばれる関東では珍しい構造だ。江戸時代の初めには、このように旗本が自分の領土内の菩提寺に墓を造る例が多くあったと言うが、重吉は「殿様」と崇められるほど領民から慕われていたのだろう。

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 冨永重吉についての記録はそう多く残されていないが、1584(天正12)年、後北条氏が援真田領の上州沼田を攻めた時、重吉は北条氏邦に従い戦った。この時、真田氏の属城手子丸城の落城を知った真田信幸は、軍わずか800騎を率いて北条軍を仙人ヶ窟という難所に誘い込んで攻撃し、その隙に手子丸城を一日で奪還した。この巧みな作戦を、後年、幕臣となった冨永重吉が信幸を訪れ、昔話の中で何度も誉め称えたという話が残されている。時代が移ったとは言え、互いに命を落としたかもしれない戦について語り合うとは、武人の死生観に、驚きを感じずにはいられない。
 墓の建つ丘を降りると、コスモス畑の向こうに戒翁寺の本堂が見えた。墓を所有するこの寺は、天正年間(1573〜92)に片平修廣寺三世玄頓和尚が開山し、寛永年間(1624〜45)に冨永重吉が堂宇を再建した。裏山の遊歩道は早野聖地公園に続いている。
 
殿様の墓
殿様の墓
 
戒翁寺
戒翁寺
 
御堂山
御堂山
 
コスモス畑と戒翁寺
コスモス畑と戒翁寺

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