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【風のタイムトリップ vol.54】稲城の沿道の初秋の風物詩 多摩川梨の歴史を辿る


 
 毎年、8月末から9月半ばにかけて、麻生区に隣接する稲城市ではあちこちで「稲城梨」の幟を旗めかせた露店が軒を並べる。稲城の梨の歴史は古く、元禄時代(1688〜1704年)、稲城市長沼村の代官であった川島佐治右衛門と増岡平右衛門が、山城国(現在の京都府)へ公用で赴き、その帰りに「淡雪(あわゆき)」という梨の苗を持ち帰ったのが始まりだという。その後、梨栽培は広まり、江戸時代の末には長沼村と矢野口村で十数戸の栽培農家があったらしい。川島佐治右衛門が持ち帰った稲城梨の原木は、明治半ばまで東長沼の川島家の庭にあり、幹囲り約180センチ、枝張り約100平方メートルの大木だったという。明治時代になると、稲城では「共盟杜」などの梨造りの組合が各所に誕生し、苗木や肥料の購入や出荷を共同で行った。

 一方、川崎市でもすでに江戸時代から梨栽培が始まっていたが、1893(明治26)年、大師河原町(現在の川崎区出来野)の当麻辰次郎氏の梨園で、甘みの強い新種の梨が発見された。同家の屋号に因んで「長十郎」と命名されたこの梨は、明治30年の黒星病の流行時にも被害を受けず、収穫量も高かったため、隣の稲城市はじめ、全国に栽培が広まった。昭和になると多摩川沿いの梨生産の組合が団結して「多摩川果物生産組合連合会」が生まれ、昭和7年には「多摩川梨」という統一名称が誕生。同地域での梨生産は黄金時代を迎えたが、その後20年代後半からは観光梨園化が進み、街頭販売が盛んになったという。
 道端の露店で、代表的な多摩川梨の一つ、稲城梨のお徳用(ひと山1000円)を買った。「はい、おまけ」とおばさんがもう一つ大きな梨を袋に入れてくれた。ふと見上げると真っ青な初秋の空に、夏を惜しむように白雲が浮かんでいた。
 
収穫前の稲城梨
収穫直前の稲城梨
 
露店
稲城梨をはじめ、さまざまな多摩川梨が売られる露店 
 
稲城梨歌の碑
川島家の門の前に立つ稲城梨唄の碑
 
54回地図

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