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【風のタイムトリップ vol.53】竹の花宿の面影を求めて 夏の寺に馬頭観音を訪ねる


 
 小田急線・柿生駅南西の商店街通りには、江戸時代、旧津久井街道が通っていた。現在、駅前広場になっている所にはかつて、藤屋という豪商の家があり、周辺の村々の炭を買い集めて江戸に卸し、雑貨を仕入れて農村に売る問屋を生業としていたという。今は大きな藁葺屋根の母屋も取り壊され、広場に隣接して、同名のビルが残るのみである。
 旧街道を鶴川方面に進むと、ある店の前に人の背丈ほどの石塔がある。「宝塔様」と呼ばれるこの石塔は、「60年ごとの庚申の年に禍がある」との考えから、翌年は無事であってほしいと、前年の寛政11(1799)年に麻生をはじめとする六ヶ村講中によって建立されたものだ。
 ところで街道のこの付近には「竹の花」という集落があり、江戸時代末期には旅籠や酒屋、床屋などが建ち並び、大変に栄えたという。竹の花が急に賑わった経緯には、文化10(1813)年に江戸の呉服商による絹の直買が始まったことが大きく影響している。それ以前も津久井街道は、黒川の炭や禅寺丸柿などの販路であったが、これに加えて新たに絹を運ぶ人馬も頻繁に通うようになったのである。
 竹の花宿が最も栄えたのは、宿場から少し先の一本松という所に「馬頭観音」が建てられた、文政12(1829)年頃だと言われる。馬頭観音はもともと仏教の六観音の一つだが、馬頭を戴いたその姿から、馬の無病息災や行き倒れになった馬の供養をする民間信仰の対象となった。
 猛暑のある昼下がり、今は浄慶寺の境内に移されている馬頭観音を訪ねた。涼しげな木陰の中に佇む、朽ちかけた観音像の石塔の側面には、はっきりと「文政十二年」の文字が読み取れる。そしてまた、石に刻まれた「左江戸」「西八王子」「東神奈川」の文字は、一本松が津久井街道から神奈川方面への分かれ道であったことを物語るのであった。
 
宝塔様
柿生駅商店街にある宝塔様
 
馬頭観音
浄慶寺に移された竹の花の馬頭観音
 
側面の文政の文字
観音様の側面の文政の文字
 
53回地図

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