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【風のタイムトリップ vol.31】北条と上杉の せめぎ合いに取り残された深大寺城


 
 調布市神代植物水生園の敷地の中に、戦国時代、小沢原(現在の麻生区金程付近)で行われた合戦と、実に関係の深い城址がある。深大寺城は築城主や年は定かではないが、武蔵野台地の南端に南東に向かって半島状に突き出た台地の上に、戦の拠点的な陣城としておよそ15世紀頃から築かれていた城であった。
 この時代、相模に進出した北条氏と南武蔵を防衛していた扇谷上杉氏が、多摩川を挟んで武力衝突を繰り返していたが、1524年、北条氏に江戸城を攻略された上杉朝興は、居城の河越城から南武蔵方面に頻繁に攻撃を始めた。そしてついに1530年、深大寺城に陣取った朝興と、多摩川対岸の小沢城に陣を敷いた北条氏との間に、先述の小沢原で合戦が開かれたのだ。この戦は北条が勝利したが、父の後を継いだ朝定は江戸城を奪い返そうと1537年、深大寺城を増築し、次の攻防に備えた。ところがこの年の7月、北条氏は深大寺城を迂回し、直接、河越城を攻めた。朝定は城から敗走。結果、深大寺城は軍事的価値を失ってしまったのである。
 水生園の入り口にある城址の案内に従い坂を登って行くと、広々とした緑の芝生に出た。ここは深大寺城の第二郭跡で、本丸にあたる第一郭跡とは土橋でつながれた構造になっている。芝生には座るのにちょうど良い大きさの敷石が散らばり、お弁当でも広げたい気持ち良さである。この石柱群は、武士の屋舎と考えられる2棟の掘立柱建物の柱の穴の位置を示すもので、城祉には、土塁や空堀などもとてもわかりやすい状態で保存されていた。
 ところで深大寺城は北条氏の支配となったにも関わらず、小田原の防衛に不要だったため手付かずのまま放置された。関東の北条が支配した城のほとんどが北条流に改修されたことを考えると、深大寺城は元城主の上杉の築城技術を知る上で貴重な遺構であり、北条の城の中では特異な境遇を持った城だといえる。
 当時は多摩川の向こうが見渡せたであろう土塁の上に立ち振り返ると、戦から取り残された平和な城跡が、秋の日差しの中に静かに佇んでいた。
 
深大寺城・第二郭跡
芝生が広がる深大寺城・第二郭跡
 
30回地図

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