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【風のタイムトリップ vol.40】新田の兵の魂に守られてきた多摩川の小島


 
 中世、麻生区を通る鎌倉道沿いでは、各所で幕府の攻防戦が繰り広げられてきたが、北関東方面から多摩川を渡って鎌倉道に入る渡河地点が、現在の稲城市矢野口の渡し場であった。
1333年、上野国の新田義貞は執権北条氏の支配する鎌倉幕府を滅亡させたが、その後、鎌倉は足利氏の管理下に置かれていた。1358年、新田義貞の次男・新田義興は足利尊氏が没したのを機に鎌倉を奪い返すべく、従者13人と挙兵した。
鎌倉を目指す義興一行が、矢野口の渡しまでやってくると船が差し向けられたが、実はこの船には足利方に味方する江戸荘領主・江戸遠江守らの謀りにより、船底に栓が仕掛けられていたのだった。そうとは知らない義興らが乗船すると、船頭は栓を抜いて水に飛び込み、同時に両岸から数百の江戸方の軍勢が攻めかかった。鎧姿で身動きのとれない義興はもはやこれまでと自害するが、従者の中でも強者と評判の由良兵庫助と新左衛門の兄弟は、小舟の舳先で互いの首を切り合い果てたという。その後、江戸方は手柄の報告に遺骸を捜索するが、由良兵庫助の遺骸だけが見つからなかった。壮絶な死を遂げた由良兵庫助の死体は、実は多摩川下流のとある中州の小島に流れ着いていたのだった。島人たちは災いを恐れ、兵庫助をこっそりと供養した。これが今、東急田園都市線「二子玉川駅」高架下の河川敷にある「兵庫島」の名の由来であるという。
 兵庫島はこの時代には完全に島の形をしており、洪水のたびに移動を繰り返していた。不思議なことに兵庫島と名付けられた後は、どんな洪水が起きても流されることがなかったという。現在は公園になっている兵庫島の丘に立ち、木々の間から滔々と流れる多摩川を眺めていると、一艘の小舟がたゆたっているのが見えた。
 
兵庫池
兵庫池の向こうに田園都市線の高架と多摩川を臨む
 
兵庫島公園
緑の木陰が気持ち良い兵庫島公園
 
40回地図

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